天下統一の陰で…側室の多さも関係か?豊臣秀吉の死因でよく聞く「腎虚」とは

  • 作成:2021/11/09

健康問題が人生を大きく左右するのは、今も昔も同じ。この特集では、歴史好きの女性医師馬渕まり先生が、歴史的な有名人物を悩ませた健康問題を解説し、そこから学ぶべき教訓や、歴史上の「if」を考えていきます。今回考察するのは豊臣秀吉です。

馬渕 まり 監修
 
馬渕 まり 先生

この記事の目安時間は3分です

天下統一の陰で…側室の多さも関係か?豊臣秀吉の死因でよく聞く「腎虚」とは

低い身分から一代で関白まで成り上がった男「豊臣秀吉」。そのサクセスストーリーは今もなお人の心を掴んで離さず人気のある武将の一人です。とはいえ以前に比べて人気がやや陰り気味、理由を考えてみると晩年の生きざまにあるのではないかと推察されます。
今回は秀吉の後半生にスポットを当て、病気や死因について考察いたします。

天下統一したときが秀吉のピーク?!

秀吉は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)に生まれました。あれ? 初っぱなから「いつ」が抜けていますね。秀吉の生年には諸説あり、天文5年か6年(1536年か1537年)が有力です。信長や家康と違い、農民(または足軽とも)の出身であるため生年月日がはっきりしないのです。

15歳頃、今川家臣の松下家に仕えたのち、織田信長に仕官、短期間で敵の前に城を建てた「墨俣一夜城」や撤退戦でしんがりを勤め上げた「金ヶ崎の退き口」などで手柄をあげ、30代半ばで城持ちとなりました。織田信長が本能寺において謀反に倒れたあとは、明智光秀を討ち取り、信長の後継者争いに勝利し、本能寺の変の3年後には武家初の関白に。天正18年(1590年)の小田原城攻略でついに天下統一を成し遂げました。このあたりが秀吉のピークです。

天下統一の翌年、秀吉を補佐していた弟・秀長が病気で亡くなります。秀長は温和な性格で周囲の信頼も厚く、秀吉の欠点を補うような人物でした。同年秋には淀との間に生まれた待望の息子、鶴松が数え年の3歳で亡くなりました。
このあと、仲の良かった千利休に切腹を命じ、第2子が生まれたとはいえ、後継者であった豊臣秀次を妻子ともども処刑。2度の朝鮮・明への侵攻(文禄・慶長の役)は結局失敗に終わり、慶長3年8月18日(1598年9月18日)伏見城で亡くなりました。生年が不明なので推定年齢になりますが、62〜63歳での死去です。

秀吉の死因でよく言われる「腎虚」とは 有力なのは生活習慣病?

天下人のため、生涯のまとめが少し長くなりましたが、ここから死因を考えていきます。まず間違いないのは「病死」ということ。戦死や事故ではありません。さて、肝心の病名ですがこれが悩ましいのです。現代でも偉い人の病気が秘密にされることはありますよね。秀吉についても「ズバリこの病気だった」といえる資料が残っていません。とはいえ、さすがに亡くなる数カ月前の資料や本人の手紙には大病を思わせる記録が残っています。

慶長3年(1598年)の端午の節句で諸大名と対面したあと、秀吉は体調を崩し、当時の名医たちが診察したところ「いつもより脈がおかしい」と。ここから病状は坂を転がり落ちるように悪くなり、5月下旬には食事量も減り、6月下旬には周りから見ても明らかに筋肉が落ちた衰弱状態となってきました。この頃側室にあてた自筆の手紙には「いつもの一万倍くらい苦労してこの手紙を書いています。もう15日間食事を食べていません」と書いてありました。これが秀吉最後の自筆の書となります。

同じ頃、イエズス会の宣教師が本国に送った手紙には「下痢症状があり、最初は軽かったがだんだん重症化していった」とあります。結局、病状は進行し持ち直すことはなく、死期を悟った秀吉は全国の大名を呼び寄せ、幼い秀頼が成人するまでは徳川家康ら五大老が補佐し、合議制で政治を行う旨を遺言しました。死の1カ月前からは心神喪失状態で、言葉もあやしくなり、1週間前からはほぼ昏睡でうわごとを言うのみだったそうです。

出生年と同様に秀吉の死因にも諸説あり、当時日本に輸入され猛威を振るった梅毒から、食思不振を根拠とする胃がん、長く続いた下痢から示唆される赤痢などの感染症、はては毒殺説まで実に様々。
その中で一番よく聞くのが「腎虚」です。これは現代の腎臓病の事ではありません。漢方における腎は泌尿・生殖系を指し(当時、精液は腎臓で作られると思われていました)、腎気は成長や発育、生殖などに関わる生命エネルギーを示します。この腎気は加齢で減少すると考えられていますが、セックスのしすぎでも腎虚となるそうです。秀吉は側室も多く、女性好きで有名なため、頑張りすぎて腎虚という話になったのかもしれませんが、それで衰弱して亡くなるのはちょっとおかしいような…。

ここで晩年をもう少し長い目で見ると、50代で尿失禁があったという記録や、利休に切腹させたことを忘れ「伏見城の普請は利休に頼みたい」と手紙に書いたなど、認知症を疑わせるエピソードが出てきます。しかし、四六時中認知症状があったわけではなく、正常と異常が混在する「まだらな」状態であったようです。これらのことから脳血管性の認知症があったのではと推察できます。

このあたりを強引にまとめると、天下をとったあとの贅沢な生活や、後継問題のストレスなどが影響して高血圧や耐糖能障害(インスリンの働きが悪くなる)といった大病につながる基礎疾患があったのではないかと推測されます。そこに認知症状が加わり、食欲不振から一気に症状が進み終末期は心不全や腎不全も発症していたと疑われます。歯切れが悪くてごめんなさい。

最後に歴史の話に戻ります。甥の秀次らを粛正したため秀吉の血縁者は大変少ない状態でした。跡を継いだ秀頼はまだ幼く次第に家康が勢力を強めていきました。慶長5年(1600年)の関ヶ原で西軍が破れると豊臣家は摂津大坂66万石に減封され、15年後の大阪夏の陣において大阪城は落城、秀頼は母淀と自刃し、豊臣氏は滅亡しました。秀頼成人まで秀吉が生きていれば関白職を譲ることができ、豊臣政権が続いた可能性があったのではないかと思います。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

秀吉の辞世を見ると、豊臣家の行く末が明るくないことを感じていたのかもしれませんね。

広島県生まれ。秋田大学卒。
現在は愛知県の病院勤務。糖尿病専門医・総合内科専門医。
趣味は旅行と食べ歩き。

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